戦後の東京に暮らした少女の話
お買い物をしに家を出て、一本道を歩いていた時のこと、向こうから歩いて来る近所の奥さんの姿が。話し出すとめちゃくちゃ長話するおばあさんです。
おっと~マズい、このシチュエーション、逃げられません。雨も降りそぼる夕方だというのにツイてないなぁ~…
(こんな昭和感あふれるおばあさんじゃないですけどね)
何とか挨拶だけシャープに済ませて通り過ぎられないものか・と思っていましたが、やっぱりいっぱい話しかけられて捕まってしまいました(汗)
そして、
まあだいたいのパターンなんですけど、若いころ東京で過ごした昔の話になぜか発展していくんですよ。
でもたまたまその日は、去年ブログでシリーズ化しようと始めていた「日本・戦後復興」についての記事の続きを、そろそろ書こうと思っていたところでした。
ふむ、まあ今日は戦後の話なら聞いても良いかも…?
奥さんは85歳。
高校生時代を東京で過ごしたとのことなので、1950年~1952年辺りの話だと思われます。戦争が終わったのが1945年の夏なので、まだ東京が焼け野原になって5年目ぐらいの頃ですね。
(空襲で焼き尽くされた東京の下町)
奥さんも言っていましたが、よくそんな頃(まだ日本中が戦争の痛手を負っていたころ)に親が出してくれたものだと思う・と。親御さんの考えとしては、若いうちに親から離れて暮らす経験をしておくべきだ、というのがあったそうです。
日本中が空襲にあい、焼け野原になっていた中にあって、島根は空襲を受けておらず、また、農家も多かったので街のように飢餓におちいらなかったことが、娘を東京へ進学させることのできる親御さんの体力であったようにも思います。
いざ、
田舎から大空襲を受けた東京へと進学した奥さん。学校はうろ覚えですが、音楽関係だったと思います。戦後のどさくさの頃に音楽学校へ進学するなんてお嬢様です。
住まれた場所は世田谷だったと思うのですが、学校の寮へ行ってみると、中庭にはでっかい大穴が空いたままだったそうです。じゅうたん爆撃の時の爆弾が寮の中庭に落ちてそのままになっていたとのこと。そういうものはそこらじゅうにあって、まだそれらを収拾する余裕がなかったようです。
寮の同級生友達は新潟から来て居た人で、お互い田舎出身で方言が強く、何を話しているか分からないことが多々あったようです(笑)
(東京駒込の焼け跡)
学校のまわりもまだまだ何もなく、世田谷から富士山がきれいに見えたそうです。戦後復興も始まっておらず、高い建物もなく空気がきれいだったから見えたのだ・と。
服飾の学校だけがいち早く建ったそうで、何もない所にそのビルだけがポーンと目立っていたそう。
今の世田谷というと高級住宅地のイメージがありますが、当時は牧場があって牛なども飼われていたそうで、奥さんは毎日牛乳をもらいに行っていたそうです。
そんな何もない極貧の日本にあって、しかし、学校の上の階では定期的に音楽のコンサートが開かれていたとのこと。戦後のあの瓦礫のガチャガチャの中で、しかし優雅に音楽をたしなんでいるなんて、何とも不思議な感じがします。
奥さんもステレオでよく音楽を聴いていたそうで、「ステレオなんてあったんですか?!」と思わず聞いてしまいました。戦後の物不足が続く中にあって女学生がステレオを持っているなんてにわかに信じられなかったもので…。しかし、そのステレオは電気屋さんにあったいらない物をもらってきたのだそうで、その電気屋さんの電球を売り歩いたりして、マージンでお小遣い稼ぎをしていたのだとか(笑) 戦後の日本はおおらかなもんです。
(空襲で焼け野原になった神田)
奥さんと妹さんはよくクラシック音楽を聴いていたそうで(妹さんも上京した?)、とくにベートーベンをよく聴いていて、「ベートーベンには哲学があるわ」「やっぱりベートーベンは格別ね」と話していたそうです。ピアノソナタの熱情が好きだったと聞いて驚きました。私もベートーベンの熱情は好きで時おり聴きますが、戦後の、やっと音楽が聴ける環境だった人が同じ音楽に同じように聴き入っていた。なんと、音楽(芸術)に国境や時代のないことか・と。
(ベートーベンの神っぷりが半端ない)
さて、
田舎から出てきた若い娘さんは銀座や中野にも足を伸ばしていたそう。
当時の中野の地下には、今でいうところのホームレスの人たちがいっぱい住んでいて、戦地から帰ってきた手や足のない元兵隊さんたちもたくさん居たそうです。自分の前に鉢を置いてお金を乞うていた、と。
(空襲にあった渋谷・中野方面の様子)
ちょっと個人的に興味のあった、浮浪児も居たのか聞いてみました。もちろん、浮浪児も居た・とのこと。そういう存在は戦後1~2年ぐらいのことだとなんとなく考えていましたが、日本が貧しさから脱却するのには想像以上の年数がかかっていたのだと、奥さんの話から察せられました。
(東京駅の浮浪児たち)
自分の中では、戦後3~4年目ぐらいでだいぶ復興がすすみ、瓦礫も無くなってビルもどんどん建ち始めていたのだろうというイメージでした。しかし、実際にはいくつもの段階を経てようやく、東京タワー建設、そして戦後復興のシンボルである1964年の東京オリンピックへ至れたようです。
まず、ようやく経済復興の始まるきっかけとなったのが1950年の「朝鮮特需」だったそうで、朝鮮戦争が起こって米軍からの物資の需要が増え、生産に活気が出たのだそうです。とはいえ、それは終戦から5年もたってからのこと。奥さんがちょうど東京へ出たぐらいの時期です。それまで戦中戦後の貧しさが何の兆しもなく続いていたと思うと気が遠くなります。
(朝鮮特需で生産業務フル稼働)
おそらく、ホームレスや浮浪児の人たちに豊かさが巡ってきたのはもっともっと後のことでしょう。「飢えている状態で、目の前に物があったら盗ってしまうものでしょう。浮浪児だって戦争の落し物だもの。責めることはできないでしょう」と奥さん。
奥さんが上京した頃はまだまだ全体的に貧しい様子の東京ですが、コーヒーが流行っていて店もたくさんあったそうです。とはいえ、今のような立派な店舗ではなく、バラック小屋みたいなものだったそうですが。当時の値段でだいたいコーヒー1杯が31円ぐらい、銀座は高くて40円もしていた、と奥さん。
(瓦礫になった銀座)
そのコーヒーを飲んでいたのかと思いきや、「私たちの身でコーヒーなんて飲めないでしょう。だから、お店の前でコーヒーの匂いだけかいで『いい匂いだね』って友達といつも話してたのよ!」とのこと(笑) 今は手軽にインスタントコーヒーを飲めるいい時代になりました。
(東京仲見世の露店)
学生さんなりの貧しいキャンパスライフを送っていた奥さんですが、東京の花火大会の特別な席に連れて行ってもらったことがあるそうです。(もうその頃から東京花火が復活していた!) 田舎から出てきて化粧道具一つ持っていない奥さんだったので、もちろんいつものようにすっぴんで行こうとしていた時、寮母さんに引き止められて「〇〇さん(奥さんの名前)、紅をお引きあそばせ」とたしなめられたのだとか。「お引きあそばせ」とか戦中戦後の言葉づかいになんか萌えますね。瓦礫ボロボロの社会の中に古く美しい言葉が残っていた、そういう対比によけい萌えるものを感じます(笑)
(空襲をうけた当時の有楽町)
手足のないホームレスの人たち。爆弾の穴ぼこがそのままの、戦争の痛手と貧しさから脱却できない長い年月。その一方で、コーヒー店が立ち並び、ベートーベンを聴く人がいる。なんともあべこべで不思議な社会です。
戦後、外国の文化がどんどん輸入され、しかし同時に明治大正時代の文化を取り戻そうとする復古運動のようなものも盛り上がって来ていたそうで、ま新しいものと古いものが一気に押し寄せる…奥さんが上京した頃にはまさにそういう『豊かさ』のエネルギーであふれていたようです。
(1952年日本独立)
奥さんはその時代のことを『豊かだった』とハッキリ言いきります。「いまの60代の人たちからはこの豊かさを知らないでしょうね」と。どう考えても経済が豊かになった時代を生きることができたのは60代の人たちのほうですが、奥さんの言う日本の豊かさはそういうことではないようです。
『自分が感じなければ、何事も前を通り過ぎていくだけ』
金言をいただきました。
そう。ま新しい欧米の文化。甦るいにしえの価値観。ステレオからベートーベン。牛乳。コーヒーの香り。目の前にたくさんあふれていても、自分がそれに「感じ」ることがなければただ通り過ぎていくだけなのだ、と。
奥さんは、貧しくとも「感じて」いたから、豊かだったのでした。きっと日本中の人もそうだったんじゃないかと思います。いろんなものが手に入らなくても押し寄せてくる時代のエネルギーを「感じて」いた。だから実情は貧しくても気持ちが豊かだった。
私は戦中戦後の本などを見て不思議に思うことがありました。それは、どう考えても空爆後の家も街も無くなって、人によっては家族や知人も失っている絶望的な状態なのに、笑顔で写真に写っている人がぼちぼち居ることです。
おにぎりをもらって笑顔になる人たち。
そりゃ空腹時におにぎりもらえて嬉しいのは分かりますが、まわりはぜんぶ瓦礫でボロッボロですやん。これからどこで寝たらいいの?どうやって生きていくの?という大いなる不安を前に笑顔になってなっていられないと思うのですが…
空襲後。焼け跡から何かを探し出して食しているところでしょうか。
この状況で和やかに笑えるなんて…
よかったー、埋めておいたコメは焼けてなかったー!
めちゃくちゃ満面の笑みですが、その量のコメぐらい家族で食べたら数日で無くなりますよね?で、この無限瓦礫の中でどうしていくんです?
と、
私なぞ思ってしまうのですが、見間違いではありません。たしかにこの超絶望状況の中に笑顔の人がいます。
現代でも災害が起き、家を失って、避難したばかりの時は飲食物もなかなか口にできない…ということはありますが、戦後の空襲&原爆&何も持たない引揚者が大量に引き上げてきて、ますます物資不足…しかも終戦の年は農作物が明治以来の大凶作で配給も滞っていて、全国みんな危機的状況、つまり援助もないこの人たちにはもっと過酷な未来が待ち受けているというのに、笑顔になれる…の?
という不思議。
(焼けた自宅跡から使えるものを探す人々)
コラムからも目の前の絶望にめげない力強い日本の人々の姿がうかがえます。
つ・強い・・・。
昔の日本人は何でこんなに強かったんだろう?
件の奥さんもいつもこう言います。
「何もなくて全部手作りだったけれど、貧しいなんて思ってなかったわ。だってみんなそうなんだから、連帯感があったの。みんなで頑張っていこう!っていうそういう連帯感があったから、辛く感じたことはないの」と。
そういわれてみれば、今の日本って人間関係がかなり希薄なのかな。町内会とかご近所付き合いとかそりゃ無いほうが楽だし、それが面倒だからどんどん「私だけ」あるいは「自分の家族だけ」になってきてるんだろうけれど、人付き合いの余裕がなかなかないんだけれど…
でもそれって、何かあった時にいざ『連帯』できないという危ない状況でもあるんじゃなかろうか?
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ちなみにオカルティー豆知識ですが、
日本の力の源が『連帯』であり、それが天皇陛下を中心とした『結束力』だということを外国人は早くから気づいていたので、戦前、戦中、戦後とその結束力を削ぐ政策をず~っとあの手この手で日本に仕掛けてきています・現在進行形。(反天皇の動きというのは、まあそういうことです)
今などあの国やあの国が、日本人の末端の人間関係まで結束力に楔を入れるべく、ネットを使って「既婚者vs未婚者」「都会vs地方」「異世代嫌悪」「男vs女」etc…いろいろな角度から敵対を煽って分離を図ってます。日本生まれの人を使っているので日本語の文章も流暢です。わざと違う立場の人が争うように口汚く罵ったりするわけです。それを日本弱体化計画(の中の分断工作)といいます。
このことを覚えておいて気をつけましょう。
そろそろ【小我より大我】。「自分」を越えて「みんなで」を意識すべき時期に入って来てるんじゃないかな・と思った次第です。(災害の意味もそこ?)
話が戦後からオカルティーに飛びましたが(笑)
奥さんの話はいろいろな意味で滋味深いものでした。
私たちの先輩日本人が非常にタフかつ前向きに戦後復興してきたことを誇りに思いませう。