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御靈祭 2015 京都で最も古い祭り


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京都の御靈祭(ごりょうさい)を18日に観に行ってきたので、
そのときの動画と写真をYoutubeにアップしました。

地元の庶民的なお祭りなのかなと思いきや、
京都(洛中)で最も古い祭りとされている、
非常に歴史のあるお祭りなのだそうで、
始まりは平安時代初期の863年とのこと。
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今年は平日に行われたので、
観に行けなかった方も多いのではと思います。
つたない動画ですが、よろしければ雰囲気だけでも観てみてください↓

『御霊祭 2015 ① 前編』

『御霊祭 2015 ② 後編』


御靈祭では、上御靈神社(かみごりょうじんじゃ)から御所まで
お神輿や牛車、稚児や太鼓が練り歩きます。
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おみこしというのは『お神輿』と書くとおり、
神様の魂がお乗りになって、町を練り歩くためのもので、
この御靈祭のおみこしには崇道天皇早良親王/さわらしんのう)などの
御魂が乗っておられます。

御靈神社は、政治的な様々な無念で亡くなられた方が
祀られています。
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京都に一番最初に都を遷都した天皇桓武天皇(かんむてんのう)
弟にあたる方です。

この時代は兄弟と言っても、母親違いの
ちょっと兄弟感が希薄な兄弟が多かったのですが、
崇道天皇桓武天皇は母親も同じ兄弟です。

両者の母は下級貴族で、他の腹違いの兄弟に比べて
天皇になれる可能性も低かったので、
桓武の弟の早良親王(のちの崇道天皇
出家して僧になっています。
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しかし、
兄の桓武があの手この手で異例の?天皇即位。
なので、
早良親王は同時に還俗し、立太子されたのでした。
(天皇になる可能性がでてきたのですね。)


母の身分など、順番としてはかなり無理のある桓武
天皇になったわけですから、
桓武即位後もしばらくは血なまぐさい政治的事件が続いており、
桓武もいろいろと疑心暗鬼になっていたのでしょう。
長岡京の造営を任されていた藤原種継暗殺事件が起こった際、
なんと早良親王にも疑いがかけられたのです。
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早良親王は太子の身分を廃され、幽閉されてしまいます。
実の兄に疑われてしまったかたちです。
身に覚えのないことで一方的に疑われ、
淡路に配流が決められてしまった早良親王
食を断って、自らの無実を訴えます。

しかし、配流の途中、
早良親王は力尽きて亡くなっています。
(暗殺説もあります。いずれにせよ、非常に無念の死をとげたのです。)

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早良親王の死後、都には天変地異・災いが起こりまくり、
御所に落雷があって、ショック死する人も現れたほどでした。

身に覚えありまくりの桓武天皇
「これは早良親王が怨霊になったに違いない。
これを鎮めるための祭りを行おう」
と、
御靈会(ごりょうえ)をおこないました。
863年のことです。
これがこの御靈祭のはじまりです。
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桓武天皇は、亡くなってしまった後ですが、
早良親王崇道天皇(すどうてんのう)という天皇としての称号も与えました。

この崇道天皇を祀る上御靈神社
そこから
天皇の名をいただいた無念の早良親王の御魂が
死して後、御所へ向かう・・・
何かいろいろと感じるものがありますね。
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おもえば、早良親王の人生は、
自分の思いとは関係なく政治的なことに振り回されてばかり
だったのではと。

生まれた身分が、天皇の子供なのに少し微妙だったがために
厄介ばらいのように僧にされたり、
とおもえば、
兄の出世で僧籍から再び太子に引っぱり上げられ、
それなのにその兄に
これまた厄介ばらいのように廃太子、流刑。
なにひとつ、
彼は彼の意図した人生を歩めてはいない・・・。
あんまりです・・・(T△T)

これはもう、特大の怨霊になるでしょう (×_×;)

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後陽成天皇のご寄進の御車(みくるま)。400年近く経つ物なのにピカピカです。

ちなみに、
怨霊になるにはいろいろ条件があり、
その中でも『身分の高さ』が必須なのだそうな。
我々がいくら怒っても怨霊には認定してもらえないのですね(笑)


こんかい撮った写真で
何気に一番気に入っているのが、太鼓の皆さんの写真。
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イキイキとした輝きが写真を通しても伝わってきます。
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人の生き方はその表情に出る・・・

いやはや、
気をつけないと・・・。