興雲閣☆明治の洋風建築
先月、松江城へ桜を観に行った結果、
幸運にも松江城内の洋風建築【興雲閣(こううんかく)】に入れましたので、
写真をアップしておきたいと思います。
興雲閣は明治35年(1902年)着工の擬洋風建築です。
「擬」と付いているとおり、完全に洋風というわけではないのでした。
屋根などは純和風なようです(そういえば瓦屋根だなあ)。
いつもは閉まっているのに、この日は
お花見シーズンということもあり、扉が開いていました。
「なになに?入場料はいるのかな?」
と、恐る恐る近づきましたが、入館自由でありました。
玄関ホール。廊下も階段も赤いカーペットです。
ホール横の廊下。
雰囲気のある木造の階段を上がり、2階へ。
このごろ洋館に惹かれているのでテンションアゲアゲです。
かっこいーい♪
本場の洋館よりも華奢な感じがするのは、
明治時代の日本人が華奢だったから?
2階は大広間で、家具も何もないスコーンとした空間でした。
そもそも興雲閣が建てられた当初の目的は、
松江市の工芸品を陳列する為だったようです。
当時の明治天皇の巡幸の際にも利用する目的だったようです。
残念ながら、明治天皇巡行は実現しませんでしたが、
旅館・迎賓館としての役割を果たしたそうです。
それで、こういうちょっと和風なお部屋も
広間横についていたのかな?
松江市の迎賓館、展覧会場、会合としての役割を果たしたようです。
明治時代といえば、
まだまだ着物を着ている人が大半だった時代、
地方のこういった洋館(もどき)は、
さぞやハイカラなものに見えたことでしょう。
そういえば私が子供の頃はまだ、
日常着に着物を着ているおじいさんおばあさんが居ましたね。
明治生まれの人だったのだと思います。
貴顕室(きけんしつ)。
さて、昭和に入り、
日本には戦争のかげが色濃くなってきました。
その際、
この興雲閣は地方海軍の人事部庁舎などに利用されたとのこと。
戦後の混乱時に松江県庁が焼けた際には、
ここが代わりの役割を果たしたようです。
その後、
昭和48年から平成23年まで、
松江郷土館として活用されていたそうです。
さまざまな時代を経てきたこの建築物。
いろいろな人間模様を見つめてきたのでしょうか?
さてさて、
楽しみにしていた2階のバルコニーへ♪
小高い所からの眺めは理想♫
ちょっと小高い所にある洋館のバルコニーから街を見おろす。
憧れのシチュエーションに遭遇できてラッキー(*^_^*)
本来なら観光シーズンの観光地に行くことなどありませんが、
赴いた先でのラッキーな出来事でした。
人のリクエストには答えておくべきだなあ(笑)
いちばん景観の綺麗な部屋に入ります。
窓におおわれた部屋に入ると、ま、まぶしい!
暗い部屋から移動したので、
カメラがびびってこのとおり。
カメラが落ち着き、薄いカーテンの向こうに咲き誇る
可愛いピンクが目に飛び込んできました。
ああ、窓の額縁に切り取られた
バルコニーと満天の桜の花。何という優雅な空間。
どっかと椅子に座り、
しばしこの贅沢な空間を満喫いたしました。
桜の向こうに見えるのは、松江城の中櫓。
その中櫓の向こうに松江市、そのさらに向こうには蒼い山々。
王様的眺めでありますな。
バルコニーへ出てみました。
私は庶民的にバルコニーと書きましたが、
正しくは列柱廊(コロネード)というそうです。
2階をぐるりとめぐるバルコニーがステキです。
バルコニーがステキなところは、眺めを楽しむのはもちろん、
雨の日でも窓を開けられる余裕ですね(笑)
京都じゃ1ミリのひさしも付いていない、
壁に直接窓・の、
カステラみたいな家の部屋に住んでいましたので、
ちょっとでも雨が降ると窓が開けられず、
バルコニーが非常にうらやましかったものです(笑)
2階中央のバルコニーにかけられた「興雲閣」の揮毫(きごう)。
ちょっぴり洋館在住気分を味わえ、
ホクホクして興雲閣を後にする。
玄関ホールを出てゆく女性のワンピースが
ちょっぴりレトロなお嬢様チックで、
一瞬、日本の華族の日常を垣間見た…幻想を見たのでした。
玄関を出たすぐの所にあるこの空間は車寄せ(ポーチ)とのこと。
華族・貴族のファミリーが、雨や日差しを受けることなく
スマートに車に乗りつける様が目に浮かぶようでございます。
私のポーチはというと、
リップとミニ鏡しか入らないちっちゃい巾着であります。
正直、都会とかではこのポーチの面積だけで
家が一軒建ちますな。
人間、大きく生きるためには
やはり大きな所に住むべきであります。
以上、
たまたま入れた興雲閣リポートでした。
次に来た時には、カフェを利用したい…。