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隠岐の旅② 隠岐の島の始まり



『隠岐の旅①』のつづきです。
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隠岐へ行く前に、すこし隠岐の伝説などを本で読みましたが、
これがなかなかに興味深かったので、
かるく隠岐の始まりの伝承を紹介させてください。



●「隠岐国」の名前の由来

隠岐の国は、イザナギイザナミの夫婦神が
国造りの際4番目に生んだ「隠岐の三子の嶋」で、
その頃、この島に40余丈の大木があったそうです。
(一丈=3.03mなので、120m以上! )
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天照大御神はその大木を見て
「美しい御木」
と言われ、そこから「御木国」の名称となり、
後に隠岐国になったとのことです。

ちなみに、その木は
西ノ島町大山神社の境内にあった大木のことだという説があり、
上の絵の木の位置のあたりです。
(残念ながら大山神社へは行けませんでした。)



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隠岐の最初の住人

面白いことに、隠岐の島は
最初に住み付いた人たちの様子がわりと詳細です。
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●木の葉人
まず、最初に隠岐にやってきたのは男女2人でした。
彼らは
島後の北端、伊後の西の浦に住み付き、
やがて五箇村の重栖(おもす)湾から入って北方に移動したようです。
彼らはすでに、火をおこす道具や漁具を持っていたそうです。
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そして次に、
五箇村北方の長尾田に夫婦二組が上陸。
先住の2人と重栖湾で生活したようです。

さらに
西ノ島の船越えに男一人・女二人を乗せた舟がつき、
彼らも先住の人たちと一緒に住むようになったようです。

その後も毎年、島の各地に同種の人々が島に到着
一団は重栖と船越えに集まって定住したようです。

彼らは栄え、人口も増えていったようで、
次第にその二カ所では狭くなり、
やがて隠岐各地に分散して住むようになったそうです。

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人数や足どりなど、
びっくりするほど先住の民について詳細じゃないですか?
おそらく弥生時代前期から中期のことではと個人的に思っていますが、
本土でも弥生時代あたりの伝承はこれほど詳細ではないですよね?

何となく隠岐にはこういう底力みたいなのを感じるのでした。




これら先住の人々は『木の葉人』と呼ばれていたそうです。
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木の葉人は獣の皮を着て、
その上に木の葉を潮水に浸し乾かしたものを羽織り、
葛や川柳の皮で綴ったものを着ていたとのこと。
しかも、
髪もひげも伸びたまま。目だけが光っていたという。
(パッチリとした大きな目だと表現している本もあったと思います。)
きっと肌が浅黒いor黒く汚れていて、
目が大きいもんだから白目が目立ったのでしょう…

性格はいたって温順だったそうです。
(後から来る人々とも仲良く共同生活している様子を見てもそうですね。)


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で、本では
「彼らの大部分は韓の欺廬国、あるいは徐羅国から来た」説を
さりげなく付けてありましたが、
あ~、またそっちに話をくっつけようとする人が居るのだなと(笑)


私は個人的に、
弥生晩期まで日本列島は移動していた説を支持しています。
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弥生時代、西日本はもっと南にあったと考えています。
図のとおりなら、けっこう南国ですね。
紀元30年ぐらいに東日本と北海道も南に来ています。


時代はちょっと500年代(古墳時代)になってしまいますが、
古代中国の梁時代の梁職貢図の倭人の絵が
自分の中では弥生時代の雰囲気を残す土着の日本人の姿となっています。
(平安時代までは縄文人弥生人も同時に存在していたようです。)
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ちなみに、
この職貢図の百済人の絵図もありまして、
だいぶ服装、顔だちが違います。
(左が倭人、右が百済人)
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半島の人はよくこれを引き合いに出して
ほら日本人は我々に比べてこんなに土人だったのだと、
薄着や裸足、浅黒い肌を馬鹿にしているそうですが、
いやいや、
それは寒い所の文化と、南国(の影響がまだ色濃い)文化の違いでしょう
と私は心の中で突っ込みます(笑)


もう一度、木の葉人の特徴を思い出してみて下さい。
ヒゲを伸ばして目もギラギラ(ぱっちり)。温順な性格。
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獣の服というあたりはもはや縄文人
少なくとも、弥生系の文化の特徴ではないかと。
(弥生人は本当は薄顔では無かったのだとかで。)

もうひとつ、
三番目に入ってきた人たちが男一人に女二人という記述がありますが、
アイヌの人たちには一人の男が複数の女(姉妹だっけ?)
娶る習慣があったはずです。
(アイヌは土着の日本人の習慣をよく持っていたという意味で例に挙げました)

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そういえば、古墳時代にも
大王が姉妹をまとめて娶る話がたまにありましたね。
欺廬国(しろこく)がどうだったかは分かりませんが、
未開の島に移住するぐらいの、特に高くない身分の人でも
複数の女性を娶る縄文的習慣は他にあまりないのでは?と、
個人的に思っています。

というか、
そもそも欺廬国辰韓斯盧(しろ)
辰韓とは3世紀ごろ朝鮮半島南東部にあった小国の集まり。

で、
日本の弥生時代は区分は諸々ありますが、
ウィキでは
紀元前10世紀頃から、紀元後3世紀中頃までとなっています。
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ものによっては2世紀までが弥生時代・というのもあります。

何が言いたいかというと、
半島のおそらくスタートであろう辰韓は3世紀から
3世紀は日本では縄文時代の次とされる弥生時代が、
既にもう終わりという頃です。

ふつうに考えて
縄文or弥生の特徴・性質を持つ木の葉人
その後にようやく発生した辰韓から来たのだという説は
ちょっと苦しいと思ふ…。


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長くなってしまったので、次回にまわしますが、
その後、隠岐に上陸する『神々』
かなり弥生人の特性を持っています。
(海人族や出雲族)。


(フェリーに巻き上げられた海底の砂が水色になって綺麗)
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木の葉人が3世紀よりも古い上陸だと思う根拠にもなった
弥生期の隠岐への『神々の上陸』を
次に書こうと思います。

長くなっちゃってすみませんね~~~





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かなりブロードバンドの接続の状態が悪いです…
昨日はとうとうブログをUPできませんでした。

なんとか隠岐の旅のシリーズはUPしたいと思っていますが、
何とかならなかったらすみません。