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隠岐の旅⑩ 上賀茂神社の神様は隠岐へ行っていた



のつづきです。

前回の記事は
下鴨神社で巫女をしていた称徳天皇の妹君が
流された隠岐の地で祀っていた「雷神社」。
それが合祀されている飯田神社へ行ってきたというものでした。
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(もう雷神社はこのようになっているそうですが…)


上下加茂神社と隠岐のご縁はそれだけではありません。

何といっても驚いたのは、
「私の父は火雷神です」と言って突然天に昇ってゆかれたという
上賀茂神社の御祭神、加茂別雷神(かもわけいかづちのかみ)が、
なんと、その後
隠岐に渡って、隠岐の人々の発展に精を出していたという伝承が
隠岐にはあったのです!


上下加茂神社の御祭神の系譜はこのようになっています。
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左上の加茂建角身命と、その孫娘の玉依日女下鴨神社の御祭神。
その玉依日女火雷神との子、加茂別雷神上賀茂神社の御祭神です。


加茂別雷神は若くして突然去ったので、
子孫はいないことになっており、
現在、加茂族として続いている末裔は
玉依日女の兄弟の玉依日子命の子孫なのだそうです。


ああ、それが、

突然わたしの前に現れた新しい系譜(;゚д゚)
隠岐の伝承によるとこういうことになります↓
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加茂別雷神は、別雷として
隠岐でちゃんと結婚して子孫も残しているのでした。
その子孫も現在まで隠岐に続いているそうです。


真贋のほどは分かりませんが、
その隠岐の伝承を簡単に紹介したいと思います。
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●別雷の神様

京都の賀茂川のほとりの、立派な御殿に住んでいた
若くて立派な神様、加茂別雷神(かもわけいかづちのかみ)は、

「私は天津神の命令によって賀茂川一帯を立派な村にしてきたが、
今度はもっと荒れたところへ行って、
腕試ししながらその村を立派な村にしてやらねばならぬ。
そうだ、
この弓を引いて、矢の届いたところに出かけるとしよう」

と言って、
弓矢の先に葵の葉を結び付けて空に放ちました。
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矢の通った跡は白く虹のようになっていつまでも消えずに残り、
別雷はそれをたどって川を渡り、野を越え、山を登り、
ついに若狭(福井県)の湾にたどり着きました。
そこからさらに舟に乗り、
矢の跡をたどって幾日も海上を渡り、
やがてひとつの島の湾に入りました。
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その湾の入り口には、
あの葵の葉が結び付けられた矢が刺さっていました。
「この湾にある部落こそ自分が開拓指導しなければならんところだ」
そう言って船を湾の奥に進めました。

この頃、この地域には
文化の進んでいない家が10件ばかり建っているばかりで、
住民らは、冬は獣の皮で作った服、
夏はふんどしひとつの暮らしでした。
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海へ出る時は、材木を組み合わせたイカダです。

そこへ、
今まで見たことのない美しい方が
きれいに髪を結い、色のついた布で作った着物を着、
立派な舟に乗って湾に入ってきたので、
住民たちは驚き「きっと尊いお方に違いない」とお出迎えしました。


別雷は住民の生活程度が低いのに驚きましたが、
人懐こくて親切なことに喜び、
麻や楮(こうぞ)からとった糸で機(はた)を織ることを教え、
着物を着せてやり、
モリで突いて魚を捕っていた住民に
釣り針、釣り糸、竿を使った魚釣りを教えてやって、
たくさんの魚を捕れるようにしてやりました。
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漁船の作り方も教えてやりました。

病気をおこすと
どうすることも出来なかった住民でしたが、
別雷はお手製の丸薬で命を助けてやりました。
やがて進んだ農法も覚え、米や麦もたくさんとれるようになり、
どんどん人が増えていきました。


別雷が来て10年もたち、
住民たちはなんとかお礼をしたいと考えました。
そこで、
いつまでもお独りでさぞ寂しかろうと、
村で一番美しい楓姫(かえでひめ)との縁談を申し出、
別雷はそれを快諾して姫と結婚しました。
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その後も
別雷は御妃と力を合わせて村人のために働き、
村人たちはその御神徳に応えようと、さまざまな品物を献じ、
村の代表者が神徳をたたえる祝詞を申し上げました。
(これが今のお祭の初めなんだそうです。)

そのうち神様にお子が生まれ、その子も次の子も村人と結婚し、
村人はますます栄えました。
その頃には家の数も一六軒に増えていました。

一六軒の家は一生の大事業として大きな御殿をつくり、
神様はそこに住まうことになりました。
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(これが今の神様の始まりなんだそうです。)

その時の一六軒の人たちは、
いま「加茂の一六戸」と称えて
旧家中の旧家とされている家の祖先だといわれているそうです。

別雷の神様はこの地で一生を終え、
その魂は今もなお
加茂那備神社の御本殿の中に鎮まっておられるとのことです。


☆・*:.。. .。.:*・゜゚・* ☆


>「天津神の命令によって賀茂川一帯を立派な村にしてきたが」
ここは山城国風土記だっけ?の記述とも
合致しているのではないでしょうか?
たしか、
九州から来た神様が京都に来て農耕などを教えたんですよね。
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ただし、それは別雷ではなく、
ひいおじいさんにあたる加茂建角身命だったはず。
隠岐では京都での細かいことが伝わらず、
加茂建角身命の経歴が別雷に混同されてしまったのではないかと。
隠岐の伝承にも別雷のことを
「若くて立派な神様」と言っているのだから、
京都を発展させた人の年齢ではないでしょう…


もうひとつ、


川を渡って若狭(福井)の湾に出たという記述がリアルです。
時代は違うかもしれませんが、
まだ京都に巨椋池があったころは
大阪湾 ⇔ 京都 ⇔ 福井の湾
が繋がっており、そのルートを掌握していたのが
仁徳天皇の弟(菟道稚郎子)の一族、和邇であったはず。
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そういうリアルなルートが
遠い隠岐の伝承に伝わっていることは
それなりに意味があるのでは?


とりあえず、
個人的に気になってる個所を書き出してみたのでした。


☆・*:.。. .。.:*・゜゚・* ☆


そうそう、
この加茂那備神社(かもなびじんじゃ)へ行くことが
今回の旅の、もう一つの重要な目的なのですっ!

あ、でも
前回の記事に書きましたとおり、加茂は
隠岐の人でも「未開の地じゃない?行ったこともないわ」
というぐらいの場所だそうで、
車で行けるかどうかでさえ不安視していたのでした…
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ここまで来て、行けないのか?!
と、ショックをうけていましたが、
親戚のお孫さんがネットで調べて下さった結果、
「道が出来ている」とのこと。
わりと最近、加茂に道路が付いたようです。
ほ~~、とりあえず加茂へは行けそうです。
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が、
いくらネットで調べても人に聞いても
加茂那備神社の場所が分かりません。
もう、
ぶっつけ現地へ行って探すしかないのですわ。



そして、
場所もはっきりしないまま
加茂那備神社目指して加茂に向かったのでした
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隠岐の旅⑪」につづく ⇒