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出雲族、最後の決戦の地 田和山遺跡①

 
 
谷戸貞彦氏著の
『サルタ彦大神と竜 古代の子宝信仰』を読んで
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田和山(たわやま)遺跡が、
出雲族の最後の決戦の地であることを知り、
機会があれば行って、そして手を合わせてきたいなと思っていました。

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叔父さんに1月に1回のお買い物に連れて行ってもらう時、
田和山遺跡の横をいつも通りかかるので
気になってはいたのですが、
途中で自分だけ車を下りるというのもなかなか難しく…

しかし
谷戸貞彦氏の著書を読んで、壮絶な出雲族の戦いがあったことを知り
とても気になるようになったので、ちょっと無理を言って
自分だけ田和山遺跡で下してもらうことにしました。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


まだこの日は梅雨の真っただ中で、
予報では雨だったのですが、どうです、この素晴らしい天気。
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前日も翌日も雨だったのに、なんとこの日の素晴らしい晴天か!


さて
この田和山遺跡は出雲族最後の決戦の地なのですが、
出雲族(出雲族は全国に居たそうですが、ここでは山陰の出雲族のことを指しています)
はそれ以前から他国との厳しい攻防戦を繰り広げていたようです
 
西暦170年頃、
西に勢力を拡大していた吉備王国(大和王国内の勢力争いで大和を飛び出した一団)
出雲王国へ攻め入り、伯耆国(現・鳥取)を攻め、
そして妻木晩田(むきばんだ/鳥取大山町)の岡に攻め入っていたとのこと。
その時、出雲の人口は激減したそうなので、
いま山陰に人口が少ないのもきっとそのせいでしょう(?)
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(なかなかにワイルドで素敵な階段です)


美しく整備されたこの遺跡ですが、
病院の建設予定地からの出土という事で、
当初は取り壊し予定だったのだそうです。
この貴重な遺跡を後世に残そうと、もちろん取り壊しに反対する
人たちも居ましたが、取り壊しの方針は変わらず…
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(階段のすみにひっそりと咲く花)


もはや取り壊される運命か…と思っていた時、
市長が交代し、新市長・松浦正敬氏の意向によって
遺跡は保存されることになったのでした。
危なかったですね~。
人間はいろんなものをつくりだすことが出来るけど、
『遺跡』だけは後世の人間がつくることはできないですからね。

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日本は世界でも大変珍しい、
古代からその土地に住んでいる人の遺伝子を現在にも残す民族です。
(外国では新しい民族が何度も入れ替わっているのです)
なんと、紀元前の縄文人の遺伝子が現代の日本人に
20%も残っているとされています(35%という人もいます)
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(野花の咲く田和山の丘)

それつまり
日本で発掘される遺跡のほぼすべてが
私たち日本人の直接のご先祖さんの歴史をあらわすものなのです。
外国の場合、掘り出す遺跡は他民族の文化なわけで、
今エジプトに住んでいる人が古代エジプトの遺跡を掘りだしても、
自分たちとは違う民族の遺跡にすぎないわけで。
(現エジプト人古代エジプトの遺伝子を持つ人は居ないと言われています)

日本全国、掘り出される遺跡は私たちの直接の先祖
👇
縄文時代貝塚 =  私たちのご先祖さんの生活跡
👇
田和山遺跡 =  私たちのご先祖さんの戦闘跡

これってすごく
グレイトなことじゃないですかっ。
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どうかこのことを忘れずに。
遺跡を大切にしましょう。



えっと
話がそれてしまいましたが、
田和山遺跡の図を記した看板が立っていました。
上の写真は図の左下の「現在地」と書かれている所です。
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田和山遺跡全体が丘を形成していて、
とくに重要な丘の中心部は三重の堀が巡らされていることがわかりますね。

この丘は弥生時代頂上に神殿があった
谷戸氏は語っておられます。

宗教と政治が統一されていた出雲王国は
『幸の神』を信仰する宗教国家だったとのこと。
つまり
この神殿を擁する田和山遺跡は
出雲族にとって最も重要な国の要だったのでしょう。

三重に張り巡らされた堀が
そのことを証明しているのではないでしょうか。



丘を登っていくと、弥生時代の建物を再現している物が見えてきました。
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竪穴式住居跡を再現したもののようです。
田和山遺跡は居住地ではなかったようですが、
少々の建物跡はあったようです。
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発掘当時はこのような竪穴式住居跡があったとのこと。
2千年も前のものがよくぞ残っていましたね~。
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竪穴式住居の奥に見える、この長方形の建物は
掘立柱建物の跡を再現した建物だそうです。
ちょっと集会場っぽいですね。宗教関係者が話し合いなどしていたのかな?
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このような建物跡が発掘されたとのこと。
この穴の列だけで当時の建物を再現するのは大変だったでしょう。
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中に入って建物の構造を確認することが出来ます。
木と藁とロープだけで構成される建物。すごいなー。
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弥生時代の人がこれだけの建物をつくるのは
さぞかし大変だったろうなとも想像します。
だって今みたいな脚立も電動のこぎりも無いじゃないですか。
ロープも売ってないので一本一本手作りです。気が遠くなります。
それだけここは重要な場所だったのだと察せられますね。
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掘建柱建物から見る景色に、当時の人が見ていた風景を思ふ。
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掘立柱建物から竪穴式住居を見おろして
さらに弥生時代気分を高めてみる(笑)
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蒼くきれいに澄んだ弥生の空と、青々と茂る草木。藁ぶきの建物。
ちょっと弥生時代にタイムスリップ気分です。
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ちょっとオカルティーな話になりますが、
古い時代の日本(過去世?)を見たという人が、
おそろしく空がきれいだったと言っていたのをよく思い出します。
排気ガスや飛行機雲などに全く無縁だった時代の空は
さぞかし青く美しかったんだろうなと想像します。



帰りがけにようやく気付いたのですが、
竪穴式住居は、通路の後ろ側に扉がありました。
掘立柱建物の中を通り抜けて降りた辺りです。
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中には入れませんが、内部構造が気になったので
扉の隙間からカメラで内部を写真撮影してみました。
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なぜか現代の椅子がぐるりと並べられていました(笑)
現代のみなさんもここで会議をするのかな?



もう少し上ったところから建物を見てみました。
弥生式の建物の向こうに現代の住宅が見える不思議。
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三重構造の堀の様子も見えました。
外から攻め入られないよう、大変強固に堀を巡らせたんですね。
宗教施設にこれだけ堀を巡らせるのは、
それだけ出雲族の人々にとって信仰が重要だったということでしょう。
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発掘当時の三重の堀の様子です。
深く掘られた跡があるということは、ここに高い塀が建ってたんですね。
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三重の堀の上に頂上が見えました。
なかなかに整備された快適な空間ですが、
人口が少ないためか、とにかく人がいません…島根…
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『サルタヒコ大神と竜』の中から文を抜粋します。

田和山の神殿の三重の堀が役目を果たす日が訪れた。
それは皮肉にも出雲王国の滅亡の時だった。
東征軍に呼応した物部十千根ひきいる大軍勢が
出雲国境の防衛線を突破した。
南からの軍勢は山を越え、王(意宇(おう))の郡に迫り、
東からの軍勢は王の海にそって侵入した。
 
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出雲の人々は逃げまどった。
出雲国の歴史上、この時の死者が最も多かったと伝えられる。
 王宮が物部十千根に占領された後、田和山が攻められた。
神殿の丘には、迎え撃つための石のつぶてが数多く積まれた。
しかし、
堀を越える敵に対し、全てのつぶては投げ終わった。
守りの兵は全て死に絶え、戦いは終わった。

(´;ω;`)
全ての兵士は死に絶え、
出雲の歴史上、最も死者の多かった田和山…
壮絶な死闘が繰り広げられた舞台。

敵が去った後、それらの遺体は丁寧に葬られたそうです。
家族や一族が弔ったのでしょう。
国を失い、出兵した男たちが皆殺しにあう悲しみを思います。
 


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(遺跡の向こうに現代的な病院がそびえたつ不思議)


さて
いよいよ田和山遺跡の頂上にのぼります。
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頂上は平らに開けた場所でした。
柱の跡があったところに短い柱がぼくとつと建てられています。
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弥生時代中期から紀元前後、
ここに出雲族が篤く信仰し、大切に祀った幸の神の
神殿があったのでしょう。
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今はこんなに何もない穏やかな空間ですが、
2千2百年前、人々はここで豊穣を祈っていたんだなぁ。
そして、
兵士がすべて亡くなり、何百年も続いた一つの歴史が
ここで終わったんだなぁ、としみじみ。
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サルタヒコ大神と竜』より抜粋

第十七代大名持・遠津山岬多良斯(さきたらし)を最後として、
日本最初の広域王国は幕を閉じた。

田和山にあったお社は、王都防衛戦の後、西南に移ったという。
そこに今、野白神社が鎮座する。

※大名持(おおなもち)とは、出雲族の一番偉い人の称号ですね。
二つの家系から順番に大名持を就任したようです。


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ところで、
私はあまり出雲族のことは分からないのですが、
大名持の名前に「たらし」と付いていることにハッとしました。
古代天皇にも
お名前に「たらし」と付いている方が居られますよね。

第6代 やまとたらしひこくにおしひとのすめらみこと
第12代 おおたらしひこおしろわけのしめらみこと
第14代 たらしなかつひこのすめらみこと

私は古語は分からないんですが、
代々一族で同じ名前を付ける傾向のあった古代人なので、
出雲族の権力者に使われていた「たらし」の語が
その後の天神族の権力者の名前にも入っていることに
何か感じるものはありました。
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一般には天神族に滅ぼされて取って代わられたイメージのある出雲族ですが、
もしかして、現山陰の出雲族が滅んだ後もその血脈は
天神族の中に流れ、残り続けていたのかなと。

谷戸氏の考察では、
出雲族と大和の天神族はしばし友好的な関係で、
多くの出雲族の人が大和に招かれて祭祀を手伝っていたとのこと。
もしかして、大和に残っていた出雲族の人は
それなりに大和で出世していったのかな
という気もします。
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(頂上からの眺め。左が嵩山、右が和久羅山)
 
 
第3代 安寧天皇諡号(しごう)
しきつひこたまてみのすめらみこと
であることにもさっき気がついて(笑)おっ!と思いました。

磯城津彦 =  磯城の男

磯城王国の王家に3代続いて出雲から嫁入りしたので、
出雲の血の方が濃くなって、
磯城王国と出雲王国は同じになったと言われているので、
つまり磯城も出雲みたいなものなんだと思えば、うん。
なんか出雲族の影響を感じる(?)

(そもそも、私は第10代の天皇以前は天神族の前の首長だと
思っているので、磯城や出雲でも納得なんですが)


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(ようやく人が現れました。綺麗にひらけた青空です)



この田和山遺跡の頂上、出雲族最後の
悲しみの記憶の土地で、何のなぐさめの霊力もない私ですが
魂の鎮魂を願って手を合わせました。

そしたら、
すごい風が正面からブハーーーッと吹いてきて、
かぶっていた帽子のつばが顔面にビターーンと直撃しました…
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もしかして出雲族の方々に嫌われてる?

私も出雲族の血をひいてると思うんだけどなぁ~…



また頂上から向こう側に降りて遺跡を探索しましたので、
そちらも次に簡単に紹介したいと思います。

サルタ彦大神と竜 古代の子宝信仰[本/雑誌] / 谷戸貞彦/著

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