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戦後復興のすごさが分かる画像④ 戦後1945~46年

 
の続きです。
先の空襲、広島・長崎の原爆につづいて
終戦直後の日本の画像を見てみました。

ネットのつながりが悪いので、
ちゃーっと画像と簡単な説明になります、すみません…

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1945年

8月15日、玉音放送により終戦と敗戦を知る。
皇居前には終戦を知った人たちがひざまずく姿が見られた。
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先にあげました『空襲』『広島の被爆』『長崎の被爆』の画像とおり、
日本中の都市はひどい瓦礫と焦土になっていました。
(下画像は見渡す限り焼け野原になった川崎市の中心街)
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買い出し列車のラッシュ地獄。
食料も物資も住宅もひどい不足状態の日本。
それに追い打ちをかけるように45年は明治末期以来の大凶作だった。
配給も滞り、買い出しに行かねば生きていけなかった。
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戦災による被害は交通機関も例外ではなく、輸送力が極度に低下。
乗客が鈴なりになるのが日常風景になった。


(画像左)家や家族をなくした孤児たちは大人に混じり靴みがきに精を出した。
(画像右)9月には「夜の女」が有楽町に現れる。パンパンと呼ばれた。
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戦災に加え、復員・引揚が住宅難を一層深刻にしたとのこと。
45年末になっても、まだ防空壕暮らしの家庭が28000世帯あった。
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バラック建てさえ御殿に見えた」


高射砲陣地を遊び場にする子供たち。(東京・小石川)
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凶作だった45年の秋以降、深刻な食糧不足や遅配に見舞われ
ヤミ市が各地に広がった。(東京・新橋駅前)
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校舎が焼け、青空教室で授業を再開。8月30日。
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東京では9月1日授業を開始。地下壕の教室。


戦災で廃墟となった東京でも焼け跡整理作業が始まる。
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米国のアジア救済連盟からの救援物資、
キャンディーをなめる戦災孤児たち。


東南アジアからの引き揚げ者。
浦賀には南方・沖縄・米国本土などから564625人が帰国した。
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1946年

終戦1年たっても戦災後そのままの東京・京橋。
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焼けた鉄材の山。銀座・松屋前。


家を失った住民は防空壕バラックで雨露をしのいでいた。
都バスは従業員に、廃車になったバスを提供し、バス村が出現した(駒込)。
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46年2月からインフレ防止のため、
1カ月1人当たり500円の引き出ししか認められなかった。
庶民にはヤミ市は気軽に利用できるものではなかった。
(浅草公園露店のすし屋)
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(浅草公園露店の焼魚屋)


(画像左)女性への参政権が認められ、女性議員89名が立候補した。
(画像右)GHQによる財閥解体が着手される。勧銀に運ばれた三井・三菱の株券。
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12月15日、樺太・千島からの引き揚げ者。
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12月8日、シベリアからの復員が京都の舞鶴港に入港。
強制労働に従事していた復員兵が約2500人、故国の土を踏んだ。
ソ連地区からの集団引揚は1959年までつづいた。


ナホトカから高砂丸入港。復員兵でごった返した。
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引揚者は46年までに510万人に達したが、日本に戻って来ても
深刻なインフレと食糧難で厳しい生活を強いられた。
一時収容施設に入居しても新しい引揚者が来るたびに追い出される。
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「故郷はどうなっているのだろう」
引揚者は3日間の援護局暮らしを経て南風崎駅へ。
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46年秋ごろからエロ・グロが売りの風俗誌が出現。
最盛期には数百種にのぼった。
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(画像左)都市では孤児や街頭児が駅やその周辺の地下道をたまり場にしていた。
靴みがき、たばこの密売やスリなどあらゆる方法で日々の飢えをしのいだ。
(画像右)浮浪児が食べていく道はモク拾いか靴みがき。(名古屋市内)
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浮浪児を収容施設に入れても脱走者が多かった。(お台場の施設)
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浮浪児についてはネットにこのような記事がありました↓

『餓死、物乞い、スリ…戦争が生み出した「浮浪児」その厳しすぎる生活』
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/66375
日本の終戦記念日は昭和20年8月15日なんだよ。だけど、そこから先が、
浮浪児にとって本当の戦争のはじまりだった。
生き延びるための戦争だ。



天皇陛下による直接の国民慰問、復興への努力を励ます視察が開始される。
巡行は足掛け8年。全行程3万3千キロにおよんだ。
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その後も戦後の困難は長く続くので、
もう少し後の様子まで『復興のすごさ画像』を続けようと思っています。

 
復興の象徴である『東京オリンピック』まで出来ればいいなぁとは思っています。