オリガミ ヲ キリガミ オカルティー(総合)

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未来へどう進化すればいいのか☆第一歩③

 
 
いつだったか、TVで
ヴァイオリニストの女性が演奏中のクライマックスの時の感覚を
『その瞬間、神様にお会いしている』
と表現されているのを見たことがあります。

たしかに、
演奏家の方は、演奏が最高潮に達している時、
なにか非常に感極まっておられるような、悦びの極致に居られるような、
そんな表情に見えますね。
 
また、作家の方が、
あるとき突然、作品のインスピレーションが『降りてくる』のがわかる。
と語っておられるのを聞いたことがあります。
『降りてくる』というそのニュアンスに、
人間の域を超えた何者かの力を暗示しておられると感じました。
 
 
これは、
(何も成していない)私にすら、分かる部分があります。
既存の枠を超えようとするその行為に、
なにかの作用が働いていることを感じる…。
そういうことは、あるとおもいます。
 

脳内にドーパミンが・という説明もありましょうが、
それだけでは、
芸術を次のレベルに昇華させる力の全てを語れないし、
ましてや、
ドーパミンの量が文学作品の出来を決めるわけでもないでしょう。
 

私は芸術・文化方面でしか分かりませんが、
スポーツの世界でも既存の記録を超えるその一瞬、
(あるいは自分の線引きを越える瞬間)
人智を超えた何らかを感じることは、あるのではないでしょうか。
 
 

身近なところで言うと、
人が人を産み出す出産という行為にも、
神のような力を感じます。

もっともっと身近なところで言えば、
美しい風景に圧倒されたり感動したりするそのことも、
人間の領域以上の何かを感じる瞬間ではないかと思います。
(見ることで感じる貴い力というのもあるのでは?)

『今』の領域をほんの少し昇華したその上に、
私たちが『神の領域』と考えている、
なにやら人智を超えた貴い領域・未来がある。
そんなふうに思えてなりません。
 
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「未来へどう進化すればいいのか☆第一歩①」では、
人類史上、憧れのお腹いっぱい生活を手に入れたのに
天国気分を味わえない現代人について書きました。
(↑先進国の現代人ですね。)

ずいぶんまわりくどくなりましたが、
物の豊かさを充分に享受し、もはや充分以上にあふれちゃった
よるべない現代人の次に目指す豊かさは、
イライラ事もなく、また、憎むことも恨むことも必要ない、
全てに信頼と安心を感じられる、
理不尽のない社会、
優しい気持ちで生きていくことの出来る人生…
それが次なる天国ではないかと。
 

出会う人出会う人、
おもいやりのある暖かい人であれば、
心のカサカサすることのない、
理想の天国だと思うのですが、
どうでしょう?

支配的な者はおらず、徒党も発生せず、
必要なものは与えあえ、分けあえる、
シェアが高度に機能した社会、という方向も
すばらしいものではないでしょうか。
 

次の天国に、上記のような世界はどうですか?
(^-^)

 
そのためには、
助け合いの精神が世界的に普及する・とか、
人が持てる力を的確に発揮できる・とか、
社会の構造がよりスムーズになる・とか、
いろいろあるとは思うのですが、
まずは自分がそういう社会にふさわしい人間になる
必要があるのでしょうね。
分かっちゃいるけど、それがなかなか難しい(笑)
 
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ところで、
「未来へどう進化すればいいのか☆第一歩②」では、
振り返りたくない過去も、自分の醜い部分も直視して
認め・受け容れることになった、その過程を紹介しました。
 

↑切り紙作品をより進化させようとしたこの作業中のできごと。
どうして、
こんな時に『自分を直視』せざるを得ないことが起こったのか?
私は考えました。
 

このページの最初に例えを用いましたとおり、
人が『今』というラインを越えようとするそのとき、
『神の領域』へ上がろうとしたその瞬間、
なにか人智を超えたものの力とその作用があるのだと、
そう感じて(信じて)います。
そこには、
私たちが『神』という言葉で表現しているなんらかの力が本当にはたらいていて、
『天』と認識している領域へ、わずかに達している瞬間がある
、と。
勇気をもって、そう信じることにします(笑)

仮に、
切り紙を進化させようと懸命に作業している時、
ほんの一瞬、『今』の自分から、
ほんの少し、『神の領域』へとレベルアップしようとしていた、
とします。

しかし、
『神の領域』の門を叩くには、
神の領域に見合う自分自身でなければならず・・・
非常に初歩的な第一歩として、
『あなたは自分という人間を正しく理解していますか』
『自分自身を受け容れられていますか』
という問いが、神の領域の底に近づいた時に投げかけられる。
なぜなら、
それが”次の領域”に進出する最低限の条件だから。
たぶん・・・。

だから、
その道を進化させようとしたとき、
上の領域へ近づこうとしたとき、
『自分自身に向き合えるか』のテストが同時に始まる
あるいは、
自分自身に向き合う機会が与えられる
 

スポーツ選手が怪我という困難を迎えたり、
芸術家がスランプに陥り、制作できなくなったり、
病気が訪れて、今までどおりに物事が出来なくなったり・・・
こういったものも、
自分と向き合う機会を与えられてるんじゃないかなと。
次の領域を迎える通過儀礼と言ってもいいかもしれません。

このとき、
自分と向き合い、自分自身を理解しなくたって
技術と積み重ねで、その道を極めてみせることも
可能だとは思います。

だけど、
それはテクニックだけの進化とも言えるかもしれません。
 
対して、
自分自身と向き合い、自分というものを認め、
人間として何か1枚、うす~いものかもしれませんが、
それを脱いで再生できた人は、
少し新しい世界で自分自身を構築できるように思います。
 

創り出す者として見る人に何かを訴えかける力
そういうものの有無は、
この部分に関係しているのかもしれません。

新しい時代、見る人はこういう部分に
敏感に反応するようになる…気がします(笑)
 
イメージ 3
 

食べること、生きることでいっぱいいっぱいだった
長い人類の歴史、
ほとんどの人はきっと、自分に向き合っている余裕など
無かった
だろうと思います。
とにかく、
安心して食べられる・生き延びられることが大事だった。
 

そうしてようやく、
現代・先進国の人々は、享受される衣食住を満喫
ある意味、足りている以上にむさぼっているとも言えます。
しかし、いくらむさぼろうとも、
その欲に『終わり!』は無く、
むさぼりすぎた人にはむしろ、空しさがやってくるのでした…
 

どんどん手に入る『物』
我々はずいぶんはしゃいできましたが、
そろそろ心安らかな人生、社会が欲しくなってきました

スピリチュアルブームとか、
それゆえに起こったのかなぁ・・・と。
 

そろそろ生きるに必要な割合を、
物の充実から、心の充足へ、
比率変えする時がきているのかもしれません。
 

これからの進化の先というのは、
安心して人を信頼できる世の中。
『自分が』ではなく『みんなで』の理念で動く社会
ではないか、
そんなふうに思います。

個人個人が誰かと向き合う時、
何かを為すときも、厳しい指摘をするときでさえも、
相手がよい方向へ進むための言動をモットーに出来れば
世の中ずいぶん良くなるような気がします…
嫌いな相手を前にすると、なかなか出来ないけれど(笑)
 

まずは、そのための第一歩。
自分自身という人間を、等身大のまま認めて受け容れる。
人になにか素晴らしいことをできる人になるその前に、
もっと小さな、基本的な第一歩が
ここにあるのでした(;^ω^;)
 

その小さな一歩は、
よい未来への大きな始まり。
 

うまく自分を認められ、人のことも認められるようになった・・・
とおもったら、
また意地悪な自分が出てきて後退しちゃったり(笑)
すぐにいろんなことも面倒くさくなっちゃうし(><)
そうやって、ゆらめいて、
でも、生きてるあいだにちょっとずつでも前進できたら良いかなぁと。
 

意地悪は面白いのでなかなか止められませんが(ニヤリ)
人を信用できない世界より
人と信頼しあえる世界を選びたいので
がんばって進化を目指します(^O^)

 
みんなで進化の先へ歩を進められたらと思います♪
 今、困難にぶつかっているあなたは
良い未来の始まりを迎えています!
 
 
 
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長~い話・御精読ありがとうございましたー,。・:*:・゚☆