オリガミ ヲ キリガミ オカルティー(総合)

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期待しない行儀、期待に応えないという一流。



今日(日付こしましたが)
フィギュアスケートの世界国別対抗戦を観ました。(TVでだけどね)

国別対抗ということで、そう周りに求められたことを選手が察した故か?
国の期待を背負うような、気負いに気負った選手の「誓い」
事前のインタビューで選手の口から繰り返し聞かれました。
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TV画面を観ながら、
あ~あ~、そんなに背負っちゃわなくていいのに、
自分のために取り組んで下さいよ、

心の中で突っ込んでいました。
だって国民の命と命運をかけたゲームに
国の代表選手として出るわけでもあるまいに(笑)

外国人選手が「ちょっと日本旅行も楽しめたらいいな」
ぐらいの楽しげなノリで大会に挑み、ニコニコとやっているのに比べ、
日本でやっているということもあるのでしょうが、
日本人選手の気負いまくってカチカチになっている表情が、
見ていて辛かったです…
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特に男子選手は名前を読み上げられて手を振るシーンでも
ニコニコの外国選手に比べ、カチカチになってる日本選手のご不憫…

我々なんぞ、その選手たちの人生において何の責任も負わないというのに、
何をそんなに選手たちは負わされてしまったのか。




それにしても、
どんな強靭な才能も潰す「国民の期待」という破壊力

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家族、友だち、所属グループなどの周囲の少々の期待は
その人の力になるだろうけれど、
「国民の期待」とか、
このぼんやり、かつデカすぎる恐ろしい重圧は
その人が持つ「純粋に取り組みたい気持ち」という方向性を
強制的に見誤らせてしまう気がする…。


本来の取り組みであろう「自己の追求」が、
人の勝手な「期待」の周波数で乱されてしまい、
変な電波でやられちゃっている状態のまま取り組まされることで、
持っている力の出しようがなくなるのではと。
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私なぞノミの心臓すぎて、
ちょっとでもまわりから期待めいたものを感じると
「本来の自分」のイキイキ感をたやすく失う三流っぷりです。

正直、誰かが異様に期待されながら、
しかも、
いい結果が出せて当たり前だよね?的な目線
ガンガンに好結果を予想されまくっている様をメディアで見ているだけで、
選手の方々がご不憫すぎて心が折れちゃいます(;O;)

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どんなに期待されることを力に出来る称賛好きな人だったとしても、
日ごろ何ほどの応援もしていない人々までが束になって、
急に大きな大会の前に超ド級の期待をかけられてしまっては
本来の力が出せない状態になる
ことは
想像に難くないですよ。

それなのに、
わざと有能な人間をつぶしにかかっているのか?
ともうがってしまう、
国際大会前の(特にオリンピック!)メディアの
「国民も期待してますよっ!頑張ってください」報道。
(↑んな状況で頑張れるか!(笑))

オリンピック前のTVガイド誌やスポーツニュースの
「メダル予想」とか「メダル期待値グラフ」とか
見てるだけで胸がムカムカしてきますよ。
国民を変な方向に先導するな!と。

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そう、
私たち見る側にも大切なことがあると思うのです。
それは、
「勝手に期待しない行儀」

基本、人間、
勝手に他人に期待を寄せてはいけないもの
↑こういうのが、
近年ようやく人々の間に浸透し始めてきた気がします。

親であろうが、パートナーであろうが、師匠であろうが、
「人」という自分とは違う別個体に
「期待する」ということは甘えなのだ
・と。
ましてや
会ったことも無い、たまにTVで見かけるぐらいの距離の人に
極上の結果を期待するなんぞ…。

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来年は冬季オリンピックですね。
みなさん、無責任に人の才能に「期待する」ことを
やめるようにしてみませんか?
(私もいろいろ甘えて期待して見ることを反省。)

メディアの煽る
「さあさあどんどん〖国民〗として期待しましょう!」
に乗せられそうになった時には、
「いやまてよ、私はこの人に期待する資格があるというのか?」
と、ちょっと立ち止まって考えることが大事な気がします。

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(重圧に表情が硬くなっている選手を見て心が痛くなります…)

目立つ位置にあがってきている才能ある人たちは、
間違いなく、とんでもない努力をしてきていますよ、
人生の大事な時間のほとんどをそれに費やすほど。
その人がいよいよ、大きなことに取り組もうという時には、
その人がそこで、
自分自身が納得いくパフォーマンスができるよう、
見守ること以上はしない。

その
「勝手に期待しない行儀」
我々外野には必要だなと、自己の反省も込めて思います。

スポーツだけでなく、芸術や文化、研究の世界の人に対しても。

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(演技後に選手らが手を合わせて謝る光景がもはや異常事態。
べつにプリンスも怒ってないと思うよ。
宇野選手に至ってはなぜ手を合わせるのかと…)



一応(ほとんど仕事になっていないとはいえ)私も
物づくりをする一面を持っています。

その創作は自己の「表現したい欲求」ゆえとも言えますが、
同時に「見る人に良い気持ち、楽しい気持ちなどをもたらしたい」
という純粋な動機も含んでいます。
(人は人の役に立ちたいという欲求がありますから)
しかし、
「~~してほしい」とか、
何らかの(よく理解できない)期待を感じ取ってしまうと、
私の豆腐メンタルはすぐに油切れを起こして
促進力がなくなってしまいます(笑)
それなのに、
誰にも期待されなすぎると寂しくなってしまうという我儘(笑)

(TV 観戦後、ネットニュースを見る。この記事の書きよう。)
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(「まさか」とは何だ。いつも好成績でなければならないという
プレッシャーを勝手にかけたのは誰じゃ。)

さて、
何かを為したい、つくりあげたいと欲求した時、
人はどのようにそれを最大限に良い形で
人にもたらすことができるのか


(私のような三流でも、
このように悩みあぐねる時期をいくつも経験しているという不思議。)

昔の少女漫画の女の子のように、
クヨクヨ、うねうね悩んで煮詰まって、
結局導き出された想いは、
『自分が楽しいと思って取り組んだものが一番いい』
という、とても月並みなものでした。

『自分が楽しく取り組んで、なおかつそれが人に喜んでもらえる。それが最善』
だと。結局そうなるわけなんです。

(さんざん世間の期待を煽って、
金メダル以外ゆるされないプレッシャーを与えておいて、
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銀メダルになったら「まさかの」とは何事じゃ。)

だから、
人に喜んでもらえるものを生み出すパフォーマンスを求めるなら、
まずは自分が楽しく取り組めることを一番にかんがえるべしっっ!
なのです。
そのためには、逆説的ですが
人の期待に心惑わされず、自分のやりたいことを優先する
ドライで(人の目から見ると)身勝手な心持が必要なのだと私は考えます。

(「まさかの」だと?!誰が期待を煽って潰したと思っておるのじゃ。)
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何らかのものを追求して形にしたいと思うなら、
プロであるほど
「人の期待にこたえない」、
「まわりの思惑よりも自分の美意識を優先する」、

そういうふてぶてしさ、いえ、柔軟な我儘さが、
吉と出るのではと、
三流の私は思います(笑)

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(そうそう、自分の純粋な目標の達成を目指せばいいんです。)


いつかは聞いてみたい。
国民の期待バリバリの人物にマイクが向けられ、
インタビューの締めくくりにくっつけられるお決まりの
「次の○○、期待しています!」
という言葉に、
「いや、私は自分が表現したいことを表現するためにやっています。
満足できるパフォーマンスを目指しています。
その結果についてきたものが優勝(特等・メダル)であれば
なお良いとは思いますが。」

とバッサリ、勝手な期待に冷や水を浴びせる言葉を!

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怒る人は居るかもしれないけど、
本来、勝手に人に期待して、
期待通りに人が動かないことに怒る人の方がおかしい
わけで、
その辺りにはっきりと水を差す人物が現れることは、
後のその世界の後輩たちを
「世間の勝手な期待」から守る一石になるのではと。

↑これも勝手な期待かも知れませんが、
私が世間に大注目されるようなインタビューを受ける日を待っていては
寿命の方が先に尽きてしまう恐れの方が多いので(笑)

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この「勝手な期待」に対する違和感は
前から、(特にオリンピックシーズンには)
ずっと感じていたモヤモヤ感でした。
来年の冬季五輪前にということで、
今回は生意気にも「期待しない行儀」を呼びかけましたですよ。

ここを読んで下さった方がそういう見方もあるのだなと
少しばかりでも記憶に刻んで下さったなら、幸いです。

(選手や活躍されている皆さん、自分の追求心を一番に考えて下さい。)