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天皇陵めぐり☆祇園・東山辺り①

今はなにかと外に出たい気分満点なので、
祇園辺りから東山辺りの天皇陵を巡ることにしました。
夏に行った山科の天智天皇陵も画像UPしちゃいます。
 
まずは、花園天皇陵と崇徳天皇御廟です。
ざっくりした地図です↓
 
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まずは、青連院と史料編纂所の間に、お寺のような門構えでたたずむ
花園天皇陵です。
 
イメージ 2
第77代 花園天皇
幼時から読経念仏を欠かさなかったという信心深さ&学者も顔負けの修学で
歴代随一の学識と称えられていたとのことです。
人柄も公正かつ冷静だったそうです。
 
 
 
 
次に向かったのは、崇徳天皇御廟です。
こちらは天皇陵ではないのですが、怨念をおさめるための御廟とのことです。

その通り道、
ちょっぴり円山(まるやま)公園にも寄りましたので、画像をUP↓
 
イメージ 3

ええ、それで、東山通りに出て、南に進み、
崇徳天皇御廟を目指しました。
表通りからだと分かりにくい所だったので、
安井金毘羅宮を目印に進みました。
大きな鳥居があるので分かりやすいのです。
 
鳥居が見えたら、その手前(北側)の安井北門通にはいり、
その一本目の右の通りに入ります。
 
 
イメージ 4
 
どのような怨念を恐れて、このような御廟がつくられたのか気になりますね。
で、
うす~く調べてみました。
 
崇徳天皇、まずは出生からして複雑です。
 
形式上では前の鳥羽天皇の息子ということになっているものの、
鳥羽天皇は、妻(ふじわらのしょうし)と白河院(おじ)の不義密通の子
ではと疑っており、遠ざけていたとのこと。
 
鳥羽は、実権を握っていた白河院が人生を終えると、
反白河サイドで要職を固め、
当時、天皇の位に居た崇徳天皇に譲位を強要。
まだ3歳児だった我が子(こちらは我が子と思っていたよう)を
近衛天皇として即位させたとのこと。
 
しかし、崇徳の悲運はそれだけではなかった。
近衛が病死したことを崇徳の呪いのせいだとした鳥羽は
崇徳の子ではなく、後白河を後嗣にすえる。
後白河崇徳の同母弟。)
 
鳥羽の死後、崇徳はクーデターを画すが、
後白河に敗れて讃岐国に流され、非業の死を遂げる。
 
 
悲しすぎる人生です・・・。
 
これはねんごろに供養しないといけませんね。納得。
 
 
 
 
そして、
天皇陵めぐりはさらに東山通を南に進み、
五条通をひたすら東へ登っていきます。
 
ものすごいざっくりな地図はこちら↓
 
イメージ 5
 
 
 
5条通を登るも、余りの坂道っぷりに、途中で自転車を置いて
徒歩で六條天皇陵・高倉天皇陵へむかいました。