二子塚古墳☆シブイ宇治観光スポット
『石清水八幡宮へ行く②』から続いています。
他府県から来た友人との京都観光。
その前に『どこに行きたい?』とリクエストしたのですが、
『二子塚古墳に行ってみたい』と・・・。
以前、自分が観光したところの写真をいくつか
友人に送っていたので、
その時の写真を見て気になったようです。
ご・ごめん、
写真では伝わらなかったのかも知れないけれど
すっごい地味な、何も無い所なんです・二子塚古墳って
Σ(・口・!)
写真は、かろうじて古墳の形が残っている部分で、
本当はほとんどの部分が取り壊されてしまってるんです↓
本来は仁徳天皇陵のような立派な二重周濠(上・左図)なのですが、
京阪電車を引く際に壊してしまったとのことなんです・・・
そう友人に説明しましたが、
なぜかそれでもいいと・・・(歴史ファンとかでもないのに)。
そんな感じで、
宇治の花火大会に行く道すがら、ここへ寄ることにしました。
何かを期待しているのなら、
本当に何もないので申し訳ないなぁ~・・・
そう思いながら8月の猛暑の中を歩いていきました。
住宅街のふつうの道を抜けていくと、
ふつうの公園みたいにさりげなく『二子塚古墳』の入り口が。
あまりにもさりげないせいか、以前来たとき、
すぐ近くで地元の人に地図を見せて場所を聞いたのに
「え~そんなものあったっけ?」 と、
誰も知らなかったのでした(汗)
↑古墳、陵墓、天皇陵関係は
だいたいこんな感じです・・・(;^_^A)
さて、
入り口の階段を上っていきますと
池と、その奥にちょっとした森みたいなのが見えます。
近づいて見てみると、
・・・・・。
はい。池と森ですね。
(池のふもととか見ると、ゴミがプカプカしています。)
ええ。これだけなんですよ。
ここが一番綺麗に見える位置ですから。
がっかりした?
ところが、
友人は清清しいまなざしで
『あ~、やっぱりここに来てよかった!』 と・・・
?(゜Д゜)ぇえ~ほんと?!
よく分からないけれど、
写真を見たとき、ここに来たいと思ったみたいです・・・
●被葬者(ひそうしゃ)はだれ?●
超基礎ですが、古墳は、古墳時代という
権力者のお墓です。(後の時代にもあることはある。)
その中で、
天皇(この時代では大王と言った)の古墳じゃないかな~?
と思われるものは、〈天皇陵〉とされます。
それ以外は、ふつうに〈古墳〉です。
う~ん、このお墓だれのかなぁ?古すぎて分かんないや!
というのが本当のところで、
○○のお墓・という指定もちょっとあやふやだったりします。
で、
この〈二子塚古墳〉の被葬者ですが、
もしかして継体天皇(けいたいてんのう)かもね~? と言われています・・・
(言われているだけです・・・)
その理由は、
古墳の規模といい、二重周濠といい、これは
仁徳天皇のような大王クラスの古墳ですよ!
で、古墳時代、
大王クラスでこのあたりの地域にゆかり(影響)があったのは
継体だから、継体のお墓かも・みたいな、
うろ覚えですが、だいぶザックリした理由だったと思いまふ・・・(汗)
(正直、この時代のことはあまりわからないんだと・・・。)
でも、今現在、継体(けいたい)天皇の古墳とされているものは
大阪にあるのでした(゜Д゜)
あ、でも、ほら、
宇治にとってもゆかりのある大王クラスの
あのお方が居られるじゃないですか
( ゚д゚)
ここからは私見という妄想↓
その名前にも〈宇治(兎道)〉がついている
菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)さんが!
二子塚古墳は木幡(こわた)辺りにあるのですが、
木幡は菟道稚郎子のお母さんの出身地です。
当時は通い婚だったので、
夫婦は別々の所に住んでいて、
子どもたちはみな、母親のもとで育ちました。
菟道稚郎子は母と祖父と共に
木幡の近くの兎道(宇治)に住んでいたといわれていますが、
少なくとも親戚は木幡に居たかと。
仁徳天皇レベルで、
木幡にあるお墓。
↑なんでこれで菟道稚郎子が候補にならないのか
素人の私には分かりません(><)
(古墳の時代が違う?それもどうだか分かりませんよぉ?)
ちなみに、
何かで読んだ覚えがあります(ザックリですみません)。
父に次期大王を指名されていたのは菟道稚郎子。
しかし、2年後、大王になったのは仁徳。
なのに、
王位を譲って死んだはずの菟道稚郎子がとある次期まで
天皇と表記されていたって??
それってもしかして、仁徳が菟道稚郎子を・・・(察し)。
みたいな。
(立派な仁徳が兄弟を殺して王位を奪ったなどあってはならない、
ということで、 天皇=神 時代に事実を変えられた・説もあります。)
ということで、自分の中で勝手に
二子塚古墳=菟道稚郎子
というロマンを想い描いています(笑)
話はもどりまして、
二子塚古墳の外周を歩いていましたら、
少し小さめの、茶色い可愛いサギを見つけました。
古墳が住居のようです(^д^*)
しかし、よく見ると
すぐそばに、ひとまわり小さいサギが。
夫婦(親子?)で古墳に住んでいるようです。
こういった宮内庁の領地として管理されている陵墓や古墳などは
日本の生態系をけっこう守っているのです。
そういう観点でも、
史跡や古墳を大切にすることは大事なことなのです☆
さらに古墳沿いに歩いていくと、
竹やぶの中にひっそりと石室の遺構(いこう)が!
あまりのひっそりぶりに、
じつは前回来た時、これに気付かなかったのでしたΣ(・口・!)
石室があったんだ~!
ここに…ここに???様のご遺体が…!!
と、
一人でテンションがあがっていたのに、
説明の看板にこう書かれていました
〈大正年間に後円部と石室が壊されたため、くわしい様子は分かりません〉
と・・・。
これって電車を通した時に・・・(察し)。
こんだけしか残ってないのかぁ↓↓↓
千数百年の日本の貴重な歴史になんてことを・・・
(T△T) ショックゥ!
◇◆…◆◇…◇◆…◆◇…◇◆…◆◇…
そして、私たちはようやく
花火鑑賞の場所取りをすべく宇治へ向かいました。
一駅てまえの三室戸駅で下車。
もうすでに人がゾロゾロと、川辺に向かっていました。
まだ夕方だったので、なんとかレジャーシートを敷けました。
そして、
場所を確保すると、そのまま菟道稚郎子の陵墓へ向かいました。
そうそう、
陵墓に行くと、花火観覧の人が陵墓に侵入しないよう
職員の人たちが見張っていましたが、
『菟道稚郎子さんのお墓におまいりしたいんです。』
と言うと、
『は? あ、 ああ、 どうぞ・・・(変な奴ぅ~)』
と言って、中へ通してくださいました(;^_^A)
菟道稚郎子の陵墓
こんなににぎわっている花火大会直前でも
ひっそりと静かな空間です。
墓前で手を合わせました。
それにしても、
今日はなんて菟道稚郎子さん盛りだくさんな一日なんでしょう!
↓
菟道稚郎子の古墳かも・と一人密かに思っている双子塚古墳に。
↓
花火鑑賞する所に菟道稚郎子の陵墓がある。
いまここが正式な菟道稚郎子の陵墓として管理されています。
スルドイ方はきっとこう疑問に思われたでしょう。
『なんで三室戸に正式な陵墓があるのに、
二子塚古墳を菟道稚郎子の古墳だと思うのか?』 と。
じつは、
「ここが○○天皇の陵墓・・・かも?」
というぐらいの曖昧なものなのです
(゜Д゜)
だって、その存在ですら半ば伝説の天皇が居られるのに
そのお墓がどことか言われても…困るでござる・なのです。
しかも、
菟道稚郎子の陵墓がここであると決められたのも、
『なんかこの辺りにこんもりと土が盛られていたから,。・:*:・゚☆ 』
みたいな、そんな理由だったと(うろ覚え)。
「↑これって宇治川の堤防を築堤した時に取り除いた土を
ここに盛ってあっただけなのでは・・・」
という冷静な声も聞かれます(;^_^A)
(ここが陵墓指定されたのはわりと近年。)
まん前に秀吉の築堤した〈宇治川太閤堤跡〉もあるしなぁ(遠い目)。
ま・・・まぁ、 でも
人々が信じて何度も手を合わせることで、
そこに念のようなものがこもって
菟道稚郎子さんのところにおもいが届いているとも
言えるかも知れません。うん。
みなさん、宇治に来られた際には
菟道稚郎子さんの陵墓へいらしてください,。・:*:・゚☆
二子塚古墳も、
シブく新しい名所としてどうぞ~♪