皮膚病から日本人のルーツに想いを馳せた⑤
『皮膚病から日本人のルーツに想いを馳せた④ 』では、
卑弥呼の一族が日本に入ってきた時代の
日本列島の状況を
トンデモ系の角度で紹介させていただきました。
卑弥呼の一族が日本に入ってきた時代の
日本列島の状況を
トンデモ系の角度で紹介させていただきました。
面白いと言ってもらえたので、調子に乗って(笑)
その後(卑弥呼の死後まもなく)日本に上陸したとされる
神武天皇の、これまた
《マクモニーグル氏の透視》というトンデモな角度採用で
ザックリと紹介させていただくことにしました
.。゚+.(・∀・)゚+.゚
(詳しくは、2010年12月号のムーでチェック!)
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神武天皇は初代天皇ですが、
外国人の彼は『ファースト・テンノウ』として、
一番最初に日本に入ってきた天皇の祖先と言う意味で透視しています。
そして「ターゲットは実在した」と断言。
本当に天皇家は記紀の物語に相当しているとしたらスゴイ!
●典型的なモンゴル人の風貌。
●名前は『ムイジン』がしっくりするそうです。
(モンゴル的な名前?)
マメち
(※天皇家の成立については多くの仮説があるそうですが、
このところ 『騎馬民族征服説』が人気だそうで、
ユーラシア系の騎馬民族が朝鮮半島を経由して渡来・征服王朝を建てた。
という説です。
5世紀になると日本に馬関連の出土が激増するのが
その根拠だそうで、確かに馬の埴輪とか出現してますね。
↑
天皇家のルーツもここに含まれる・と。)
このところ 『騎馬民族征服説』が人気だそうで、
ユーラシア系の騎馬民族が朝鮮半島を経由して渡来・征服王朝を建てた。
という説です。
5世紀になると日本に馬関連の出土が激増するのが
その根拠だそうで、確かに馬の埴輪とか出現してますね。
↑
天皇家のルーツもここに含まれる・と。)
ムイジンの父は
「邪悪な」武将のために土地を離れることになり、
黄河沿いに船団を組んで東へ移動。
まさかの船移動です。
「邪悪な」武将のために土地を離れることになり、
黄河沿いに船団を組んで東へ移動。
まさかの船移動です。
ムイジンの父は人望厚い人物で、
行く先々の地域で裁判官として紛争をおさめ、
町を武力でもってして盗賊から守ったりしていたようです。
水戸黄門とか遠山のきんさん大陸バージョンを想いうかべたのは
私だけでしょうか?(笑)
そしてムイジンが45歳のとき、
一族は山東省(さんとうしょう)に達していたそうです。
そして一族は、徐州(じょうしゅう)の町で同盟を組み、
船上生活から大きく生活スタイルを変えました。
土地に建物を建て、作物を植え、年貢を支払う・と。
ところが
西暦256年~258年ごろ、
大きな戦争が始まり、ムイジンの父は負傷して亡くなりました。
(古代では非常に長寿なのでは?)
そしてムイジン57歳。
一族を率いる・・・と。
大きな戦争が始まり、ムイジンの父は負傷して亡くなりました。
(古代では非常に長寿なのでは?)
そしてムイジン57歳。
一族を率いる・・・と。
ここからはザックリと日本上陸までを流しますね。
ようやく戦争が終わったころ、
ムイジン一族のうわさを聞きつけた当時の中国の皇帝に、
都に召還される。(魏王朝か)
↓
その道中も村々で紛争を収めたので
名声や人気が高まるムイジン。
↓
多分それが気に入らなくて(笑)
皇帝は朝鮮半島の南部を治めてくるよう命令。
(中国史お決まりの〈必殺・死なせたい奴を戦地に送る〉ですね)
しかも、
皇帝はムイジンの家族を人質にとります。
(これも〈必殺・逃げたら家族が死ぬよ?〉ですね)
↓
ムイジン、朝鮮半島南端の西と東(辰韓と馬韓にあたる)の
武将を打ち負かし、朝鮮半島南端の支配権を確立。
(西暦260年ごろ?)
↓
都へ戻り、
牧島に着いたムイジンは現地の村民と
漢字を用いて意思疎通をはかったとあるのが
おもしろい説なのではと思いました。
漢字を用いて意思疎通をはかったとあるのが
おもしろい説なのではと思いました。
定説では日本では5世紀ごろから
漢字が使われるようになったとされているそうですが、
これが本当なら3世紀後半には
漢字を理解する人が存在したということになるんだとか。
で、
ムイジンは先住民と戦いながら領地を獲得し、
生活が安定すると長男(ジュジモ)に長を譲ったとのこと。
マクモニーグル氏によると、
征服した先住民は部族の一員にし、臣下にしたのだそうです。
征服した先住民は部族の一員にし、臣下にしたのだそうです。
ここでも、
坂本氏の《神武・超残忍説》とはちょっと雰囲気が違うかな?
弥生系
ジュジモが邪馬台国連合を手にしたとき、
『征服』というよりそれは
『征服』というよりそれは
『合併』というニュアンスであったようです。
意外にも
ジュジモ達の一族は法と秩序を重んじており、
相手が誠実なら交渉し、
降伏した相手は分け隔てなく臣下として権利を与えたそうです。
(そうでなかったら、戦い。)
意外にも
ジュジモ達の一族は法と秩序を重んじており、
相手が誠実なら交渉し、
降伏した相手は分け隔てなく臣下として権利を与えたそうです。
(そうでなかったら、戦い。)
ヤマトという名前(国名)も引き継がれ、
祭祀場も引き継いでいるあたり、
前のものを上手いこと利用していったのではないかと
雑誌には仮説だてられていました。
(2010年12月号のムーね。)
中国や半島の歴史では
たいがい征服した側は征服した相手をどこまでも追いつめて
氏族を根絶やしにしますが、
日本には様々な顔立ち、
DNAが混在しているところをみても、
民族と民族が上手いこと融合していったのが分かりますね。
民族と民族が上手いこと融合していったのが分かりますね。
(あ、しかし改めて百済人の顔を調べたら薄い感じでした(笑)
しかも、すっごい祖母にそっくりでした(笑)自分も似てるー)
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遠~~~~~い昔に白人(コーカソイド)の遺伝子が
入ってきているのもむしろ当然のことに思えてきます。
入ってきているのもむしろ当然のことに思えてきます。
余計かもしれませんが、
アジアにどのくらいコーカソイドが入ってきていたのか気になり
うす~く調べてみましたので、
アジアにどのくらいコーカソイドが入ってきていたのか気になり
うす~く調べてみましたので、
つづくので~す♪
しつこいです。
(;^ω^;)
(;^ω^;)