京都・大原⑦ 梶井宮墓地
『京都・大原⑥ 天皇陵』のつづきです。
道中、地図を落として大ピンチ
から
陵墓の管理をしている職員さんに案内してもらえる
という、ありがたい親切にあずかる展開に☆
天皇陵から、皇子や王が埋葬されている陵墓へ向かいます。
目の前には勝林院が。
この勝林院の敷地内に陵墓はあるのです。
受付で陵墓の職員さんが
「陵墓が目的だから」と交渉してくれているようでした。
天皇陵・陵墓によっては
有料のお寺の敷地内にあることがあるのです。
「天皇陵だけ見たい」という人がたま~に居るので、
そういうところの受付の方もその場合は
あ~はいはい、と通してくれることもあります。
職員さんに「どうする?お金払ってお寺観る?」と聞かれ、
値段を見ると300円ほどだったので、
とりあえずお金を払うことにしました。
500円だったら観光を断念して陵墓だけ観たと思います(笑)
勝林院の入り口を右に曲がり、
奥の、山に続く道に職員さんはサクサク歩いていきました。
立ち入り禁止ゾーンの中に職員さんが案内してくれました。
ラッキー、普通では入れない所に案内してもらえたんだー!
職員さんいわく、
勝手に侵入する人もいるそうですが・・・
山道をサクサク行く職員さん。
速くてなかなか写真を撮っていられません(笑)
「この穴はイノシシが掘ったやつや。」
時に野生のイノシシやシカがここまで来るようです。
一人で入るのは危なそうです。
苔むした石階段の上に、陵墓特有の石の柵が見えてきました。
美しく整備されたそこには4基のお墓が。
門跡寺院とは、
皇子(天皇の御子)、あるいは王(皇子の御子)が継いだ寺院です。
天皇の血縁の人が直接入る寺院というのは、
それなりの格式なのです。
この墓地には三千院を継いだ4名の皇子・王が埋葬されているのでした。
簡単にその4名について検索してみました。
〔梶井宮墓地〕 左から、
1752-1772江戸時代中期。
阿舎利さんの行を成し遂げた?!
阿舎利さんの行って命がけのすごいものですよΣ(゚Д゚)
しかし阿舎利になった翌明和9年、22歳で死去。
しかし阿舎利になった翌明和9年、22歳で死去。
(画像は父の後陽成天皇)
正直、
次期天皇の皇子以外は将来ライバルになってもらっては困るから
都から引き離して、こどもをつくれない僧侶にしておこう・・・
という思惑もあったんだろうなぁと。
さて、
勝林院内の墓地はもう2か所あるのです。
めちゃくちゃザックリですが、
歩いた感じではこんな地理ではないかと思うのです↓
まずは入口右の陵墓へ行きましたが、
勝林院の左奥につづく山の中にも陵墓があるのでした。
「もう一か所ある陵墓に…」
と言ったら、職員さんに
「えっ、そっちも行くの?」
と言われたけれど、
ここまで来て行かない手もないでしょう(笑)
そして、職員さんは勝林院奥の墓地にも案内してくださったのでした
(;^□^)
いっけん、見落としてしまいそうな奥の石階段。
職員さん、またしてもサクサクと行きます。
けっこう山の中だなぁ。
職員さんが速すぎてついていけない(笑)
まだ奥なんですか?
「ここシカが時々出るんですよ」
すっかり山歩きの情緒ですやん・・・
そして一般の人たちの墓地の横を通り抜け、
ついに陵墓が見えてきました。
〔梶井宮墓地〕
えぇ~と、お名前が書かれた石碑の写真を撮れなかったので
どなたの陵墓かあいまいになってしまいましたが、
おそらくこちらのお墓は
のものと思われます。
じゃ、と、職員さんが帰ろうとされたので、
「もう一つ陵墓があるはず…」
と言うと、またも、「え、そっちもいくの?」と(笑)
で、
くるっと陵墓の横側にまわると
その奥にもう一つの陵墓が。
めっちゃすぐ横ですやん(笑)
これを行かずしてどうするのよと!
静かにひっそりとたたずむ御墓。
のお墓です。
承快親王は10歳で出家し、
19歳でお亡くなりになったのだとか…悲しくなってくる↓↓↓
三千院には計、7人の皇族のご子息が
継がれたということでしょうか。
家族からも人里からも離れ、
俗世からも切り離される生涯というのは
どういうものだったのかなぁ・・・
さて、
せっかくお金を払ったので、
勝林院を普通に観光してみることにしました。
これが大正解。
ここはとても素晴らしい所だったのです!