GW☆3☆日御碕へ⑥推恵神社と悲劇の物語1
『GW☆3☆日御碕へ⑤日御碕灯台そして冒険へ?』のつづきです。
前回の記事から日にちが開いてしまってしみません、
もう前記事の内容、忘れてしまいましたよね…
え~と、
秘かに行きたいと思っていた
日御碕神社代々の宮司さん家系のお墓、
〔小野宮司家の墓〕へ、地元のおじさんが親切にも
案内して下さり、しかし…
おじさんの記憶が50年前とかで、あれ、地形が変わってるぞと(笑)
で、
貯水タンクの施設の門を開けて入ったり、
網の破れ目をくぐって山に入ったりと、
ちょっとした冒険状態になっていました
(´v`;)
で、で、
ラッキーにも、もう一つ行きたかった
〔推恵神社〕もどうやらこの山の上にありそうだぞ・と。
そういう流れの記事でした。
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さて、
網の破れ目をくぐって山を上がっていくと、
そこにはぱっと清涼感ある広い空間が。
そしてひっそりとした祠がその向こうに見えました。
やったー!推恵神社(すいけいじんじゃ)だーー!!
おじさんの50年前の記憶は正しかったのです。
ここまでお参りに来る人もなかなか居られないであろう神社ですが、
まわりの草は刈られ、清潔に保たれていました。
ひなびているけれど、とても静寂なたたずまいです。
地元のおじさんが言いました。
昔はこの後ろには木も何もなくて、
隠岐の島のある海が見えていたんだ、と。
そう。この祠は、
隠岐にもある推恵神社に向かっているのです。
そこには、日御碕神社の宮司夫婦の
悲劇の物語があるのです…
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時は江戸時代初期、
日御碕検校小野尊俊(ひのみさきけんぎょうおのたかとし)
日御碕検校小野尊俊(ひのみさきけんぎょうおのたかとし)
という人が居ました。
検校の奥方は、藩の家老・神谷備後(源五郎)の娘で、
その美貌は隣国でも噂になるほどでした。
その美貌は隣国でも噂になるほどでした。
さて、
1673年のことです。
徳川将軍の命により、第二代松江藩主・松平綱隆(つなたか)公が
徳川将軍の命により、第二代松江藩主・松平綱隆(つなたか)公が
日御碕神社に参拝にやってきました。
検校夫妻は藩主をよくもてなし、
夜の宴では夫妻で尺八と琴の楽曲を披露しました。
藩主・綱隆公は領民のために心をくだく名君でしたが、
ちょうどその頃、松江地方は度重なる火災と水害があり、
藩主自身の奥方も逝去するという苦労が続き、
憔悴しきっていました。
(延宝の大水害の際には住民の救助に自ら船を出して陣頭指揮を執ったとのこと。)
そういうこともあってか、
検校の奥方を自分の側女にしたいと願い、おもいつめ、
とうとう家老・神谷備後に『娘を連れ戻して自分にくれ』
検校の奥方を自分の側女にしたいと願い、おもいつめ、
とうとう家老・神谷備後に『娘を連れ戻して自分にくれ』
と言い出しました。
「いかに殿の仰せでも、
いったん嫁がせたものを連れ戻すことはできません」
と家老は断り、
検校夫妻も藩主の申し出をかたくなに拒みました。
と家老は断り、
検校夫妻も藩主の申し出をかたくなに拒みました。
そこで藩主は一策を案じ、
検校が秘術を使い、沖を行く船を止めるなどしていたことを取り上げ、
妖術を使うようなものを日御碕に置いておくわけにはいかないと、
隠岐の海士(あま)へ流刑に処し、
奥方は松江の神谷方にひきとらせ、城内へ入れようとしました。
しかし奥方は
長血(ながち/子宮から不規則な出血が長期間続くこと)だと称して、
城内へだけは頑として入ろうとしませんでした。
長血(ながち/子宮から不規則な出血が長期間続くこと)だと称して、
城内へだけは頑として入ろうとしませんでした。
一方、
そうして百日も祈念を凝らしたが、
幣は一本もたって流れず、検校は失意のうちに下山した。が、
途中、白髪の老人が現れて言った。
「立って流れぬのは修業が足らぬからだ。もう50日丹精をこめられい」
途中、白髪の老人が現れて言った。
「立って流れぬのは修業が足らぬからだ。もう50日丹精をこめられい」
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※ちうい
私は江戸時代の文化に疎く、
絵がちゃんと当時の風俗にそっているか自信がありません…
絵はなんとなく雰囲気だけザックリ見てもらえればと思います。
季節の変わり目の体調不良で更新が遅いですが
この物語のことは知ってもらいたいので
またUPしますね。少々お待ちを~!