GW☆3☆日御碕へ⑦謎の形状・小野宮司家の墓1
『GW☆3☆日御碕へ⑥推恵神社と悲劇の物語2』のつづきです。
さて、紆余曲折あって(笑)
推恵神社へとたどり着いたのが前記事の内容でした。
地元のおじさんによると、
この旅の隠れ本命である(?)『小野宮司家の墓』へは、
推恵神社から道があるとのこと。
推恵神社に出てしまえば、
わりと整備された道になっており、
このとおり、ちゃんと通れる道がありました。
とはいえ、
片側は斜面で、落っこちたら
底までゴロンゴロンですよ。
あぁ、ついに、
あの不思議な形状の『小野家の墓』が見られるのか!
ドキドキ。
そう、
代々、日御碕神社の宮司をつとめられる
超・由緒正しい小野宮司家。
その歴史はむっちゃむちゃ古く、
なんと!
スサノオノミコトの息子君の、
アメノフキネノミコトから万世一系で続いており、
私が借りた本によると
「現宮司・小野勝彬氏でちょうど※百代に当たられる」
という!
(※内、三代は伯耆の中山に住まれたので、正式には97代とのこと)
そして、その小野宮司家のみに見られる墓標の
ミステリアスな形状よ・・・
今回はこれを紹介させていただきたいのです。
おお、あの森の奥に見える
ひらけた場所、そしてそこに見えるあの墓標は…!
と思ったら、どど~~~ん、
鉄の扉で閉ざされていて近づけないでやんす
(~_~;)
あぁ、でも
カメラの望遠を使えば写真ぐらいはなんとか撮れるかも?
なんて思っているさなか、
でえええええええええ??
は・針金はずして扉開けてるやんん~~~?!
さすが、昔からなれ親しんでいるという
地元民は違いますな…。
よそ様の墓地に扉を開けてまで侵入するという
後ろめたさを感じつつ(´v`;)
おおお、しかし、これは…!!
と、その前に、
突然の侵入ですみません。
皆で手を合わさせていただきました。
歴史的価値という観点から
あまり世に知られていない?こちらの墓標を
撮影させていただき、
興味があってもここまで来れない方のために、
ブログに画像をあげさせていただきます。
なむなむ。
さて、
そのミステリアスな墓標の形状ですが、
雲形が彫りこまれた柱の上に
珠(たま)をいただいているという独特なものでありまして、
なぜこの形状なのか、
それは…!
明らかではありませ~ん
とのこと…
本当に、雲の上に珠の形状なんですね!
何だか神様チックで厳かな空間です。
どこか異国の寺院に来たみたいな感覚になります。
この形状の墓標は、
宮司職にあった方、小野家のために功労があった方に
限られているとのこと、
小野家であれば誰でも…
というわけにはいかないのです。
同じ雲形でも、それぞれデザインがちがいますね。
この独特な形状の墓標がつくられ始めたのは、
江戸時代初めの寛永の頃だそうで、
400年ほど前からということだそう。
上部の珠の部分に、埋葬者の御名前が彫られていました。
95代目の方、でしょうか。
従二位って、すごい地位ですよね…?
右大臣・左大臣のすぐ下ぐらいじゃなかったでしたっけ?
それとは別の、神社の宮司さんの格付け?
それにしても、
従二位というのはすごいはず。
日御碕神社ってやっぱり格が高いのね。
そうそう、
その私が借りてきた郷土資料の本には
出身が不明とされている
はっきりと
※「この地の出身です」
と言い切っておられて驚きました。
これ、歴史家でもなかなか知らない事実じゃないですか?
(※小野妹子の父親だっけ、のお墓は京都の八瀬で発見されているので、
小野家そのものの出自のことを指していると思われます。)
せっかくなので、
この貴重な小野宮司家のお墓の画像を
もうちょっとアップしたいと思います。
次に続きます ⇒